
舞台作品というと脚本があって、それを上演するというのが普通なのですが私たちは2人とも脚本が書けません。なのでどうするかというと、人にインタビューをし、そのお聞きしたことをテキスト化したり、パフォーマンスとして表したりします。私たちはそういったことを<遊び>と呼んで、その<遊び>をしながら舞台を作っていきます。
リサーチとして私金子も、石原の実家に昨年の7月と10月の2度お邪魔しました。
石原の母方の家は現在は廃業していますが、曽祖父が東京都内で建築部材などに使う石綿製品を製造する会社を経営していました。祖父の代にゴルフセンターに転業し、それも今は廃業し跡地にはホームセンターが建っています。
石原のお母さんは非常に見ている人で、絵を描いていたからか当時のことを本当に細かく覚えてらっしゃったり、また間取りを描きながら俯瞰的に見、説明してくれたり、当事者的に語ったりしてくれました。彼女の手元が当時のカタチを記憶に留めている、それが聞いている私たちの元に言葉になって復元されていく。そんな印象がありました。

一方金子の実家は建設業をやっています。祖父が飛騨の岐阜県下呂市で起業した金子工業は、地元を走る国道41号線の敷設工事を一部担いました。
41号は富山と名古屋を結ぶいわば南北の大動脈であり、町にとっても欠かすことができないインフラです。川と国道と鉄道がどこまでも並走するのが私の町ですが、41号やダムが整うまでは山沿いを歩く危険な歩危道であり、いわば都市からすれば<秘境>だったのです。

調べていくと、そんな秘境から古代には平城京建設のための人工として奈良まで歩いていったり、また朝廷に逆らう両面宿儺という怪物がいるとして、都から成敗にやってきたり、山から切り出した材木を川に流して運ぶ<川狩り>が行われていたりと、さまざまな移動の歴史と出会いました。また名古屋生まれの母にも婚姻の話が41号線にのってもたらされ、41号線に乗って嫁いできた話を聞きました。

kondabaも一昨年に下呂市で開催された南飛騨アートディスカバリーに参加しました。そのために金子は大阪から歩いて帰郷し、その10日間に石原はワークエクスチェンジをしながら金子地元に滞在、住民の方々にインタビューを行いながらパフォーマンスのテキストを作成しました。岐阜までの道のりや、これまでのkondabaの公演場所を記録したマップはコチラから見られます。


そんな2人の実家及び地元のことと、今生活の基盤にある大阪とを実感を持って繋いでみたい。それを名村造船所跡地の広大な空間にどうのっけてゆくのか・・。それをこれからやっていきます。



