関西・大阪21世紀協会

造船所跡地の広大な敷地を遊びたおす演劇的挑戦 ~「労働とスポーツの歴史と記憶」をどう可視化できるか?~

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支援総額
278,000
50%
目標金額 550,000
サポーター
23
残り
3
2026年02月28日 12時06分 まで
私たちkondabaは劇場ではない場所を会場にし、その場所の特徴を生かすことを大事にしながら演劇創作をしています。市場跡地のコンクリ―ト建築、木工所跡地の古い木の匂いや独特の間取りなどを作品に取り込みながら「ここでしか出来ない演劇」を創ってきました。  今回取り組む会場「Creative Center OSAKA(名村造船所大阪工場跡地)」は数々の船がこの場所で設計されてきた跡が残る、近代化産業遺産に指定されている場所です。南北約60mという広大なスペースも魅力的な特徴です。ここでしか出来ないことって何だろう?  それを探求する中で、かつて港と港を繋ぐ沢山の船が造られたこの場所で「近現代の労働とスポーツの歴史と記憶」を掘り起こす作品を創りたいと考えるようになりました。この広大なスペースを最大限使い、観客に「歴史と記憶」を体感してほしい。  「ここでしか観られない演劇」を創るために、ご協力をお願いいたします。
2026-02-10 15:11
足立区の富士塚めぐるお正月 vol.1
kondaba #5『kondaba港』 作品創作のためのリサーチとして、今年のお正月4日に、東京の実家に帰省にかこつけて足立区内にある富士塚を巡ってきました。巡るメンバーは私石原と今回の『kondaba港』に出演してくれるアーティスト・髙橋凜さん。年始早々のお声がけにも関わらず参加してくれました。そして時折オンライン参加メンバー金子さん@大阪です。
千住旭町商店街のペットフード屋さんの前で(右・髙橋凜さん)

はじめに富士講と富士塚について

消しゴムやキーホルダー、お茶碗、コーヒードリッパー、お煎餅、クッキー、ゼリーなど現代さまざまにミニチュア化され商品化されている富士山。古くは活火山として畏れられ、霊山として信仰されて、大和絵に描かれたり万葉集の和歌の中で歌われたりしていましたが、一般的に広く親しまれるようになったのは日本の政治的中心が江戸に移ってからだと言われています。
江戸時代には富士講と呼ばれる民間信仰が流行しました。村単位などで「講」と呼ばれる集団を組んで富士山に向かって歩き、山頂まで登拝し、また村まで戻っていく。自己研鑽の修行や祈り、そしてレジャーの要素も併せ持った旅でもありました。江戸時代後期には「江戸八百八講、講中八万人」と言われるほど沢山の講が存在したそうです。

富士塚の誕生

とはいえ江戸から富士山への道のり、そこからさらに山頂までの登山、下山して帰路までの長くて厳しい道のりは誰もが行けるような旅ではありませんでした。そこで富士講の大先達であった高田藤四郎(日行)という人が、老若男女の誰もが江戸にいながら富士登拝出来るように、水稲荷神社境内に富士山の形を模した塚を作ったことが富士塚の始まりと言われています。
富士塚は富士山の麓からわざわざ溶岩を運び、それを積み固めて作られています。そこでは登拝を祈願する儀式が行われたり、富士塚に登ることで富士山に登ったことと同じ意味となったり、塚の頂上から富士山に向かって祈ることで富士山と一体化することができると考えられたりしていたそうです。
富士信仰が盛んになるにつれて江戸の各地に富士塚が造営されました。都内にはおよそ50基の富士塚が現存し、足立区は都内で2番目に富士塚が多く残っているそうです。(1番は江戸川区)
実物の富士山とは遠く離れた街中にいくつもミニチュアを作って、それを実物に見立てて登ったりそこで祈祷したりすることで、現地に対して想いを馳せる装置になっている。なかなかに演劇的で面白いです。

石原の曽祖父はもともと静岡県富士市の出身で富士山が間近に見える風景の中で育ち、その後石綿の会社を立ち上げるために東京に出てきました。
富士市と東京の繋がりを考えるための要素の一つとしてこの富士塚、そして富士講の存在は面白いのではないか。そんな考えから今回の富士塚リサーチは決行されました。

柳原稲荷神社の富士塚

朝9時に北千住駅集合してスタート。手元には最低限の情報だけ載せた紙の地図を用意。
東口を降りて千住旭商店街を突っ切るとすぐに住宅街に。弧を描く道がいくつも重なる古い路地がなんとなく気になりつつ抜けていく。(他の方のブログによると古い水路跡とのこと)大和湯というええ感じの銭湯と助六寿司のお店を通り過ぎ、さらに路地を二つ曲がると柳原稲荷神社の正面に。入り口に関東大震災の修繕碑が立っている。肝心の富士塚はぱっと見当たらず、おかしいなと言いながら裏手へ回ってみるとありました。

裏側から見た柳原稲荷神社の富士塚、石碑や石のお社が立っているのが見える

普段は門が閉じており、富士山開山日の7月1日のみ開放される。
富士塚は裏側が丸石で土台が固めてあり、正面を溶岩石で覆っています。正面センターにまっすぐな階段が付けられて登りやすそうです。昭和8年築造。

解剖人塚(寄り道)

そこから北へ進み荒川放水路の土手に出て、東部伊勢崎線の線路をくぐったところに清亮寺というお寺があります。ここには富士塚はないのですが、マップに出ていた解剖人塚という表示が気になったので寄りました。明治の初めに西洋医療発展のために解剖された刑死者の方11名が弔われているとのことです。

大川町氷川神社の富士塚

清亮寺を出て常磐線と千代田線の線路を超え、荒川沿いに東へ進むと国道4号線にぶつかります。その高架を潜ってさらに東へ進んだところに大川町氷川神社があります。旧千住新橋の標柱や庚申塔を横目に見ながら進むと拝殿の向こうに人の賑わいがあり、そこに富士塚がありました。

千住川田浅間神社富士塚というそうです、たくさんの人が登拝されてました

「三十三度大願成就」や「立山同行」と刻まれた碑や、「◯合目」と表記された石もありました。登山道もいくつかあり、中腹をひと巡りできるような道もありました。ゴツゴツとした溶岩石に囲まれながら登山道を選び、岩に捕まりながら登っていくような作りになっていて、富士登山の臨場感を再現されているような印象を受けました。
文政7年築造後、荒川放水路開削工事と水道幹線工事のため大正、昭和と二度の移築を経て現在の場所に至るそうです。

千住神社の富士塚

大正通というまっすぐの道を南南西へ進み、千住青葉中学の前を南南東に折れて少し歩くと千住神社があります。ここは恵比寿さんが祀られていることもあり、千住七福神巡りをされている方で賑わっています。入り口に茅の輪があったのでまずはそれを潜ると、すぐ右手に富士塚がありました。

茅の輪くぐりました
いくつもの講社名が刻まれていました、登りごたえがありそう

こちらの富士塚も7月1日の開山日のみ登拝可とのことで登ることはできませんでした。周りをぐるりとまわってみると、人穴か御胎内を再現?と思われる穴もいくつかと、合数の書かれた石標もありました。ところどころ苔や草が生え、麓には梅や紫陽花が植えられていて華やかな印象でした。昭和11年に再築とのこと。

お化け煙突モニュメント(寄り道)

北西方向に伸びる墨堤通りを進み、せっかくなのでお化け煙突モニュメントを見ようと隅田川土手へ出ます。途中でおばあさんに道を尋ねると「この辺は詳しくないから、、」と自信なさげだったのが「お化け煙突」のワードを聞くと「通っていた駒込の女学校から見えていた!」と嬉しそうに答えてくれたのが印象的でした。土手へ出て右に曲がると煙突の半円部分とコンクリの土台でできたモニュメントが現れました。

帝京大学のキャンパス敷地内入り口にモニュメントがありました

お化け煙突とは大正15年に建設された千住火力発電所の煙突のことで、菱形に配置された4本の高い煙突が見る場所によっては1本、2本、3本と数が違って見えることからお化け煙突と呼ばれていたそうです。私は幼い頃に祖父からその名前を聞いたことがありました。そんなお化け煙突は老朽化のため昭和39年には解体されて姿を消しました。

さてここから荒川を渡って千住エリアを出て北上していく予定ですが、少々長いのでこの辺で一度きりまして後編へ続きます。後編は近日公開します!

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