■11年前の事件が、今になって裁かれた
2025年11月、埼玉県加須市で11年前に起きた性的暴行事件の判決が報じられました。
被告に懲役10年の実刑が言い渡されたというニュースです。
夜道を歩いていた女性が首を絞められ、あぜ道に引きずり込まれ、性的暴行を受け、左脚を負傷。
事件の直後に通報したものの、犯人が逮捕されるまでに10年以上かかりました。
そして、裁判長は「被害者は今も苦しんでいる」「精神的苦痛は甚大」と述べ、「重大さを自覚させるために長期間の実刑が相当」と語りました。
この裁判で懲役10年という刑は、性犯罪の中でも比較的重い部類に入ります。
ただ、私が気になったのは刑の重さ(軽さ)そのものではなく、「被害者が11年たっても苦しんでいる」ことが、量刑の理由にされたという点でした。
■“時間が経ったからこそ理解された苦しみ”への違和感
もし、犯人が事件直後に逮捕されていたら、同じように「被害結果の重大さ」が認められただろうか。そう考えると、司法と被害者の“時間の流れ”が、まったく噛み合っていない気がします。
被害直後の裁判では、まだ被害者の心の傷が“証明”されていません。
PTSDの診断や、長期的な生活への影響は、時間をかけてようやく可視化されるものだからです。
司法は「いま見えている証拠」で判断するシステム。
そのため、「まだ見えていない苦痛」は、どうしても軽く扱われてしまう構造があります。
被害の深さが、時間を経ないと理解されない。
そのこと自体が、被害者を二重に苦しめているように思います。
■心の傷が“可視化されるまで”の長い時間
性暴力の被害は、身体的な傷だけでなく、長期にわたる心の痛みを伴います。
恐怖や羞恥心、無力感、そして「自分のせいではないか」という自己否定。
被害者は長い時間をかけて、少しずつ社会に戻っていきます。
しかし、裁判所が重く見るのは「診断書」「通院記録」「PTSDの診断」といった、“客観的な証拠”として提出できる形の苦痛だけ。
事件直後にはそれが揃わないため、「長期的な苦痛」は、どうしても裁判の外に置かれがちです。
これは構造的な問題です。司法の時間軸と、被害者の時間軸が、ずれている。そしてこのズレが、被害者の苦しみを見えにくくしているのです。
■「見えない痛み」を社会はどう扱うのか
裁判で被害の重大さが評価されるまでに、11年もかかった。
その間、被害者はどれほどの孤独の中で、自分の痛みを抱えていたのか。
「犯人逮捕に時間が掛かったからこそ認められる」という現実は、あまりに皮肉です。
司法が「被害の深さ」を理解するのに時間が必要なら、社会の側が、もっと早くその痛みに気づける仕組みを持つべきではないでしょうか。
カウンセラーや医療、支援団体の関わりを、証拠ではなく“信頼の土台”として扱う仕組み。そうした考え方が求められている気がします。
■司法は“被害の深さ”を時間が経たないと理解しない
痴漢抑止の活動を通して、私は「被害を語るまでに何年もかかった」という人たちと出会ってきました。
時間が経っても消えない痛み、そして「もう言っても信じてもらえないかもしれない」という恐怖。社会も司法も、まだその“遅れてやってくる苦痛”に十分向き合えていません。
被害者が心を壊された瞬間に、その重大さはすでに存在している。
時間の経過を待たなくても、私たちはそれを信じて受け止められる社会でありたいと思います。
■問いかけとして残したいこと
裁かれるのは、加害者の行為だけでいいのか。
被害者が背負った「見えない被害」を、どうすれば社会は拾い上げられるのか。
時間が経たないと理解されない苦しみがあることを、私たちはもう前提として認めるべき時に来ているのではないでしょうか。

