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2025-04-19 13:41
「Man Forgiven」──赦される男と、赦せない私たちの声
こんにちは。痴漢抑止活動センターの松永弥生です。 今日は、「Man Forgiven(マン・フォーギブン)」という言葉を通して、私自身の体験や、社会の空気についてお話ししたいと思います。

■“Man Forgiven”という言葉を知ったとき

私は最近、X(旧Twitter)で「Man Forgiven」という言葉を知りました。初めて見たとき、「何これ?」と引っかかって、ネットで意味を調べたんです。

すると、その言葉が指し示す内容が、自分の中にあったもやもやとぴたり重なって、心の奥にあった何かがことばになったような感覚がありました。

同時に、悔しさや怒りもこみあげてきました。

「Man Forgiven」とは、加害的な行為をした男性が、軽く謝るだけで赦されてしまう社会構造を皮肉った言葉です。

「謝ったふりで、はい終了」「昔のことだから、もういいじゃん」

そんなふうに、加害者が“扱いやすく”社会に戻れてしまう一方で、被害者の苦しみは黙殺され、存在しなかったことのようにされていく。まさにそれが、Man Forgivenです。


■私自身の体験

私にも、まさにこの“Man Forgiven”を突きつけられたような経験があります。

ある忘年会で、仕事関係の男性から言葉によるセクハラを受けました。当時の私は、「酒の席だし…」と笑って流しました。やりすごせば、場を荒らさずに済むと思ったからです。

でも後日、その場にいたマネージャー的な立場の人が私にこう言いました。

「この間はすみませんね。あの人、注意するともっとタチ悪くなるから。だから、許してやってください」

その瞬間、私は反射的に言いました。

「絶対、許さない」

自分でも驚くほど、怒りが噴き出していました。素面の社会で、“赦すこと”を強いられたことに、体の奥底が煮えたぎるような怒りを感じたのです。

なぜ、被害を受けた私が赦すことを求められるのか。なぜ、「あの人は悪気がなかった」で片付けられてしまうのか。

赦すという行為は、自分のペースで選ぶものであって、「許してあげて」と求められるものではありません。

私は、「赦すことを強いるのは暴力だ」と強く思っています。


■“Man Forgiven”は、構造の話

この言葉が問いかけているのは、個人の性格や善悪ではありません。もっと大きな、社会の構造や空気の問題です。

たとえば、「もう十分、反省してるよ」「一度の過ちで人を潰すな」「蒸し返すな」などの言葉。

そういった言葉によって、加害者の立場が優先され、被害者の声は「面倒くさいもの」「もう終わった話」として切り捨てられてしまいます。

でも、加害者にとって“昔の話”でも、被害者にとっては、いまも心の中で続いていることなんです。


■UNForgiven──赦されなかった者たち

ここで、もうひとつの言葉を紹介したいと思います。それが「UNForgiven(アンフォーギブン)」です。

これは、“赦されなかった人”という意味で、加害を受けた側が「赦せない」と感じたまま、社会に置き去りにされている状態を表す言葉です。

「Man Forgiven=赦された男」が赦されていく一方で、「UNForgiven=赦せなかった私たち」は、なかったことのように扱われ、声を封じられていく。

「もう忘れたら?」「いつまで引きずってるの?」という言葉によって、さらに傷つけられてしまう。

でも、赦せないことは、悪いことではありません。赦せないまま立ち止まっていること、それ自体が“今の自分を守る手段”だってあるはずです。


■映画『Unforgiven』──赦しとは誰のためにあるのか

ちなみに、「UNForgiven(許されざる者)」というタイトルの映画があると聞きました。

1992年公開のアメリカ映画で、監督・主演はクリント・イーストウッド。かつて悪名高いガンマンだった主人公が、あるきっかけで再び銃を取るというストーリーだそうです。

私自身はまだ観ていないのですが、この映画では「赦しとは何か?」が深く描かれていると言われています。

主人公は、過去の罪を悔いながら行動するものの、社会や自分自身から“赦されること”はないまま、孤独にその道を歩みます。

この作品を紹介してくれた方は、「これはまさにUNForgivenの世界だ」と言っていました。

赦される男と、赦せない者。その非対称な関係性が、フィクションの中でも現実の社会と重なって見えるというのです。

そして、「赦しとは誰のためのものか」「誰が赦すかを決めるのか」という問いを私たちに投げかけていると。

私はその話を聞いて、すごく納得しました。


■私は、それにNOを突きつけたい

「昔の話にしてよ」「もう十分でしょ」
そう言って、蓋をされてきた声が、いくつもあります。その中には、私自身の声もある。

「Man Forgiven」という言葉を知ったことで、自分の怒りや違和感が、構造の中にあることを理解できたような気がしました。

「UNForgiven」という言葉があることで、私たちが抱えてきた“赦せなさ”が、個人のわがままなんかじゃなくて、社会の歪みの中で生まれていることが可視化されたと感じました。

私は、この社会の空気に、NOを突きつけたいと思っています。

赦すことを強いられたすべての人へ。
赦せないままで立っている、あなたへ。
あなたのその痛みは、間違っていません。

読んでくださって、ありがとうございました。
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