
はじめに:ニュースを見て感じた「違和感」と「恐ろしさ」
痴漢、盗撮、不審な侵入、SNSでの不適切なやり取りなど、いずれも性犯罪であり深刻な人権侵害です。
そして、それらの多くが未成年や若年層を被害の対象としていることに、強い危機感を抱きました。
これは一時的な偏りなのか? それとも、もっと構造的な問題があるのか?
「社会が壊れてしまっている」と言いたくなるほどの数に、私はしばらく画面の前で動けなくなりました。
報道が増えている背景と、それでも拭えない「多すぎる」感覚
最近では、教育関係者による性犯罪が相次いで報じられています。
つい先日も、現役の教員たちがSNS上でつながり、学校内や校外授業で盗撮した画像や動画を共有し、感想をのべあっていた事件が明らかになりました。
この事件が社会に与えたインパクトは大きく、メディアも関連事件を集中的に報じるようになっています。
たしかに、こうした“波”はあるでしょう。
しかし、報道が増えたから痴漢や盗撮が多くなったように感じているのではなく、実際に事件そのものがあまりにも多いというのが、私の実感です。
性犯罪の報道が目立つようになっているのは、メディアの視点が変わったからでもありますが、同時に、これまで見過ごされてきた被害がようやく“見える化”されてきたとも言えます。
それにしても「多すぎる」という違和感が消えません。
それは、社会のどこかで子どもたちや女性が日常的に標的にされ続けているという事実を突きつけられるからです。
なぜ、子どもや若い世代がターゲットになるのか?
改めて考えたいのは、「なぜ、子どもや若者が性犯罪の標的になってしまうのか」という点です。
私が代表を務めている痴漢抑止活動センターには、毎日、中高生や保護者の方から痴漢抑止バッジの無償配布に申込みが届きます。
中には、親や先生には言えず、こっそり申請してくる子もいます。
それは、「被害にあっているけれど、声を出せない」という現実を私たちに突きつけています。
子どもや若い世代が狙われやすいのは、身体的に抵抗しづらいからだけではありません。
「黙っているだろう」「誰にも言わないはず」という加害者側の思い込みがあるからです。
この加害者の思考を、社会が変えられていない――むしろ、これまで多くのオトナが見て見ぬふりをしてきたことが、被害の多さに直結しているのではないでしょうか。
また、最近では、SNSや画像検索で簡単に「制服姿」や「学生カバン」「体操服」など、特定の属性を持つ画像を入手できてしまう時代です。
ネットの中で“性の記号”として扱われるこうしたイメージは、現実の子どもたちの姿と地続きであることを、私たちはもっと真剣に考えるべきだと思います。
“萌え系”表現と現実の性被害――私たちは無関係と言い切れるか?
ここで、少し踏み込んだ話をしたいと思います。
日本では、「萌え系」と呼ばれるイラストやアニメ表現が、ネットだけでなく日常空間のいたるところに溢れています。
それ自体は文化としての側面もあり、創作の自由として尊重されるべきものでもあります。
けれど、その中には、明らかに未成年を思わせるようなキャラクターが、性的な文脈で描かれているものもあります。
制服姿の少女が挑発的なポーズをとっていたり、ランドセルを背負った幼い姿のキャラクターがバストを強調されていたり――
そうした表現が“当たり前”のように商品化され、広告に使われている現実を、私たちはどれだけ自覚できているでしょうか。
「これはフィクションだから誰も傷つけていない」と言う人もいるかもしれません。
でも、現実世界で10代の少女が痴漢や盗撮の被害にあい続けている状況と、完全に無関係だとは、私は思えません。
むしろ、“子どもを性的に見るまなざし”が社会に溶け込んでしまっている一因になっていると感じています。
そのまなざしは、現実の子どもを傷つける土壌になる。この構図を無視したまま、加害だけを非難するのは不十分だと思うのです。
昨日は、人気も仕事の実績もある萌え絵を描くイラストレーターが、未成年に淫行をした過去を認めたニュースが流れました。
こうしたニュースが明るみに出るたびに、私は、子どもに性的なまなざしを送るのが許される状況は「やはり、許されない」と思うのです。
被害の声が届きにくい構造と、「沈黙」を前提にした加害
もう一つ、大きな問題があります。
それは、「性被害を受けた人の声が、社会に届きにくい構造がある」ということです。
たとえば痴漢。
車内で被害にあっても、その場で声を上げるのはとても難しい。
声を出せたとしても、「証拠はあるのか?」「勘違いでは?」と疑われ、二次被害にあうケースもあります。
SNSなどで被害を訴えた女性が、逆に「でっちあげだ」「冤罪を生むな」と攻撃される――
こうした現実がある限り、被害者は沈黙を選ばざるを得ないのです。
その“沈黙”を前提に、加害者は行動します。
「どうせ誰にも言わないだろう」「黙って泣き寝入りするに違いない」と思うからこそ、同じことを繰り返す。
そして、実際にその通りになってしまうことが多い――だから被害が止まらない。
これは、個人の問題ではありません。
声をあげた人が守られる社会、被害を受けた人が孤立しない社会を、私たちがつくれるかどうかの問題です。
感覚の麻痺を防ぐには――「またか」と言わない勇気
ここまでお話してきたことは、重たい内容だったかもしれません。
でも、私がどうしても伝えたいのは、「感覚の麻痺」に警鐘を鳴らしたいということです。
性犯罪のニュースに触れたとき、つい「またか」と思ってしまうことがあります。
でも、その「またか」という感覚こそが、被害の常態化を許してしまう温床になっているのではないでしょうか。
「これはおかしい」「こんな社会ではいけない」と思い続けること。
その感覚を手放さないことが、変化への一歩です。
私たちにできることは、声をあげること、シェアすること、対話すること。
それは小さな行動に見えて、次の加害を防ぐ力になります。
子どもを守るのは、社会全体の責任
性犯罪の報道が増えているのは、加害者が急増したからではなく、ようやく「見えてきた」からなのだと私は考えています。
声をあげられる人が少しずつ増え、報道するメディアも増えてきた――そのこと自体は、社会が変わり始めた希望です。
けれど、まだまだ足りません。
私たちは、子どもが安心して暮らせる社会をつくるために、「おかしい」と思う感覚を忘れずにいたい。
そして、当たり前のように行われている性加害に、「当たり前じゃない」と声をあげていきたい。
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