
攻撃的な反応が示す「社会の抵抗」
私はそれを見て、心から「やっとここまで来た」と思いました。十年前なら、この話題を口に出しただけで“表現の自由をわかっていない”と一蹴されるのが当たり前でした。けれど今は、違和感を言葉にできる人が増えている。「この風景、なんかおかしいよね」と言える空気が少しずつ生まれている。これは大きな変化です。
同時に、この投稿には攻撃的なリプライも多く寄せられました。
「欲求不満で性犯罪が増えてもいいのか」
「BLも同じだろ」
「お気持ちで表現を潰すな」
こうした反応を見るたびに、悲しさと同時に「やっぱり、まだ話し続けなきゃ」と思わされます。社会が変わるとき、必ず“抵抗”が起こる。議論が荒れるということは、それだけ問題が可視化された証拠でもあります。
性欲ではなく、支配と同意の問題
まず確認しておきたいのは、「性欲を抑えると性犯罪が増える」という主張は誤りだということです。研究では、性犯罪の主因は“性欲”ではなく、支配欲・敵意・同意の軽視といった心理的な要素であることが示されています。
性暴力の加害者は、性的な満足を求めて行動しているわけではありません。むしろ、相手の恐怖や抵抗を通して「自分が優位に立つ感覚」を得ようとするケースが多い。心理学では「支配欲求」や「敵意的男性性」と呼ばれ、これは性的な衝動とは別の軸にあります。「支配したい」「支配できる」という感覚が、暴力の根底にあるのです。
被害者の年齢層にもその傾向が表れています。多くの性犯罪の被害者は子どもや若い女性であり、性的成熟度よりも“弱さ”や“抵抗できなさ”を狙っている。これは、性欲よりも「支配の快楽」を求めている証拠です。
もう一つの重要な要素は、“同意”を軽視する社会構造です。日本では、「嫌なら拒否するべき」「何も言わなかったから同意とみなす」といった考え方が根強く残っています。けれど、本来の同意とは「恐怖や圧力のない自由な意志によるYES」だけ。沈黙や受け身は同意ではありません。
この“同意の軽視”を、私たちは無意識のうちに学ばされています。それを助長するのが、街に溢れる性的広告やメディア表現です。女性の身体を「見られるためのもの」として描き続けることで、「相手が嫌がっていないなら見ていい」「勝手に想像してもいい」という誤った感覚が強化されていく。
つまり、アダルト広告が問題なのは、そのものが犯罪を生むからではなく、同意を無視しても構わないという空気を社会全体に広げてしまうからなんです。
駅前や繁華街で目にするアダルト広告を、私たちは毎日見ています。知らず知らずのうちに「女性=性的対象」という前提を受け入れてしまう。人は繰り返し見せられるものを“普通”だと感じるようになる。これを心理学では「プライミング効果」と呼ぶそうです。
広告は、感情を動かすために作られています。「かわいい」「セクシー」「そそられる」といった感覚を刺激し、購買意欲を高めるのが目的です。その対象が“女性の身体”であるとき、それは同時に「女性を見る」「女性を評価する」という態度を社会に刷り込む。
そしてその無自覚こそが、暴力を見えにくくします。「痴漢くらい大したことじゃない」「からかっただけ」「触れただけ」――。そんな言葉が出てくる背景には、性の対象化が日常の一部になってしまった社会構造があります。それを変えない限り、性暴力の根はなくなりません。
アダルト広告をなくすことは、単に「性的表現を減らす」という話ではありません。
それは、私たちの無意識に刷り込まれている“支配と同意の歪み”を正すことでもあります。
「見られる側」ではなく「生きる側」として尊重される社会へ。
そのためには、街の“空気”を変える必要があります。
「見栄え」ではなく「構造」の問題
駅で痴漢にあった女性が「気のせいかもしれない」と思ってしまう。周囲の人が「大げさだ」と感じてしまう。そうした感覚の背景には、この“空気”があります。だから私は、アダルト広告をなくすことを単なる“見栄えの問題”ではなく、暴力の温床を断つための文化的な改革だと考えています。
創作物や表現を否定するつもりはありません。
私が問題にしているのは、公共空間に出すことの責任です。
駅やビルの壁は、誰の目にも触れる場所。子どもも通学で通るし、通勤する女性も毎日そこを歩きます。そんな場所に、性的に消費される女性のイメージを貼り出すことが、本当に“自由”といえるでしょうか。
「いやなら見るな」という言葉がありますが、生活圏を避けることはできません。
これは“お気持ち”ではなく、“構造”の問題なんです。
公共広告は「表現の自由」の対象ではなく、「商業表現」の領域です。
誰かの尊厳を脅かす自由は、自由ではなく暴力です。
民主社会における自由とは、他者への配慮とともにあるもの。
それを忘れた「自由」は、いずれ社会を壊してしまいます。
声をあげる人を支える社会へ
私は、街の風景を変えたい。性的な広告が消えることで、女の子たちが安心して歩ける街になってほしい。
そして、違和感を言葉にした人を“うるさい”と切り捨てる社会ではなく、“よく言ってくれたね”と支える社会に変わっていってほしい。
違和感を言葉にすることは、社会を変える第一歩です。
だから私は、あのリプライの嵐の中でも「感慨深い」と書きました。
それは、声を上げる人が確実に増えている証拠だからです。
誰かの自由が、誰かの沈黙のうえに成り立ってはいけない。
私たちは、これからも“街の空気”を変えていく声を、増やしていきたいと思います。