
Sさん(70)。
出身は広島県福山市。幼少期から祖父と同居。
25歳の時に釜ヶ崎に来て、そこから釜ヶ崎で生活しています。
ー大阪に来る前はどんな生活だったんですか?
広島で仕事をしてた。
中学を卒業して、親戚が働いてる家具屋さんで25歳まで働いた。
全く知らない人の所で働くのは不安だったから親戚の所にした。
ー広島では、ご家族と一緒に暮らしていたんですか?
お祖父さんと暮らしてて、お祖父さんが面倒を見てくれてた。
ー広島を出ようと思ったきっかけは?
地域の人との付き合いが増えて、色んな所に出かけるようになったときに「家を出てもっと外に出たい」と思った。
釜ヶ崎のことは、大阪に来た時にタクシーの運転手から聞いて知ったそう。
大阪に来た日から釜ヶ崎での生活がスタート。
ー釜ヶ崎で生活をスタートさせたときのことを聞かせてください
大阪に来た日から新世界の宿に泊まってたけど、すぐにお金も無くなるから、そのまま釜ヶ崎で日雇いの仕事(1日単位で雇われる仕事。建設ラッシュ時は建築現場の仕事なども多かった)に行くようになった。知らん土地やし、道でお酒飲んでる人もいてるし、まじで恐かったけど飯食わなあかんから、なんでもせなあかんと思った。
そこから色んなところに働きに行った。旅してる感じ(日雇い労働現場は、全国各地にあった)。
大阪に来てからは、あんまり広島のお祖父さんのとこに帰らんくなった。お祖父さん、1人で飯食うんも寂しそうやったから見るの辛うて会わんくなったな。
ー全く知らない土地で暮らすのはとても不安だと思うし、「恐い」という印象を持った街なら尚更不安になると思うけど、釜ヶ崎での生活を続けれた理由は?
飯場(泊りがけの仕事の時に、労働者が寝泊まりする場所)におると、ええ人もおったから。
色んなことせな生きていけんかったから色んなことした。
ひどい現場もあったから、給料も貰えんと逃げたこともあったけど「次の仕事が見つかれば何とかなる」と思って、何日間も飯食えんでも耐えた。
飯場から抜け出して2~3日何も食わず歩き続きて帰ってきたこともあった。
身内がいたら、泣きついたら何とかなるかもしらんけど、そんなんないから何とかするしかなかった。
Sさんの20代
ー釜ヶ崎での生活で頼れる人はいた?
おらんかった。悩みとか、生活のいろんなこと話せる人はおらんかった。
同じ飯場におっても、飯場におる間は仕事せなあかんから仲良くするけど、飯場から出たらそんなに話さん。
先輩に仕事の前日の夜にビール買って行ったりしたら、仕事の日に優しくしてもらえたりして、そういうことを自分で覚えていった。
甘えたいときもあった。怒られても殴られてもいいから、泣きついたり信頼できるような人がおったら良かった。
ー誰にも頼れなくても何とかやっていくしかなかったんですね
今でも、すがりたい人とか悩みを聞いてほしい人はおらん。
人生の中で何かが欠けてるような感じがしてる。
でも、欠けてる中でも、うまく世の中をやっていかなあかん。色々あるけど。
ここ(サービスハブ西成)みたいなとこは、昔はなかったから。
ー現在、釜ヶ崎支援機構では、家庭で暮らすことができない子どもや若者が暮らせて、大人が付き添いながら生活できる「自立援助ホーム」という場所を作ろうと思っています
そんなんええな。
(自分は)学校でも「あそこは大変やから」って思われてて「勉強せえ」とも言われへんかった。
自分の話が今の子にわかってもらえて、それで助かる子がおるんやったら、ええな。

今回、色々なことを話してくれたSさん。
余計な補足はいらないくらい、聞きごたえのあるお話を聞かせていただきました。
そして、いつもオシャレなSさん。
今回も、とても素敵な帽子をかぶっていたので、ついシャッターを切ってしまった時の一枚です。

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